築竹な日々 このページをアンテナに追加 RSSフィード

本の活字による分類は2005-04-09にあります。
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2009-05-10キリスト教宣教にともなう言語学と印刷の展開ノート このエントリーを含むブックマーク

序説

16世紀,スペインポルトガルが覇をなしたこのころ,カトリック教会もまた,拡大をしていた。というのも,両国ローマ教皇の信任を得て,カトリック教界の拡大にも努めたからである。さまざまなおもわくやぶつかりあいはあったのにせよ,両国カトリック教会の保護をしたし,また現代において,さまざまな問題を抱えてはいても,旧殖民地にカトリック教会は定着しているといえるだろう。

さて,日本にはじめて西洋印刷術を伝えたのが,イエズス会であることはよく知られていよう。このように,まさに布教活動の任にある宣教会が,印刷の主体となるのは日本に限ったことではない。はじめて西洋印刷術が「そと」に出た,メキシコ・シティに据えられた印刷機(1535年)もまた,宣教に用立てられる目的でもたらされたのであった。むしろ,印刷機は,近代化の時代に現地国家(いわゆるネーション=ステート)ないし民間資本が印刷を志すまでは,宣教とともに拡がっていたものといって過言でなかったのである。

大航海時代の言語研究と印刷機拡大

宣教初期の宣教会にとって,現地で宣教師を育成するのは無理があり,絶えずわかい宣教師派遣して現地語を学ばせることによって成りたたせる必要があった。わかいとはいえ,みな成人してひさしい新人宣教師に言語を学ばせるうえで,文法書や辞書,現地語テクストが自然と希求された (Ostler 39)。活版印刷機は,そのような需めに応じて,あるいは,それを進展させるために導入が進められたのである。

メキシコで印刷されたものとして知られるもっともふるい書物は,アステカ帝国でひろく用いられていたナーワトル語 (Nahuatl) で書かれたキリスト教の教理書で,文法書や辞書が続いた。また,ワステック語 (Huastec) やミシュテック語 (Mixtec) もまた言語学習環境が整えられた。ペルーの宣教では,スペイン本国での文法書の出版が印刷機の将来に魁けたが,設置されると,やはり多様な現地語教材の印刷に充てられた (Ostler 39–40)。

現地での出版には,出版してしまえばすぐに使えるし,目が行き届くという最大の利点があった。とはいえ,すべての拠点に印刷機があったわけではなく,たとえば,ポルトガル殖民地で印刷機があるところはコチンやゴアなど東インドの拠点と日本(のちマカオ)くらいであった。Maruyamaに掲載された16–17世紀のポルトガルイエズス会語学書では,アフリカブラジル殖民地の言語のものはすべてリスボンコインブラなどポルトガル国内の印刷にかかり,インド以東の刊行地はゴアなどのみである (158–60)。

日本に印刷所があったのは,これらからみれば特異なことであったのである*1。これは,臆測に過ぎないが,ポルトガルの体力がスペインに劣ったことも影響しているのだろう。

それでも,最古のインドの文字や日本語文字による活版印刷はこれらの活動のなかで生みだされたもので,1578年に刊行されたタミル語文字の教理書が現存しているほか,「キリシタン版」として親しまれる日本での出版活動は名高い。また,スペイン殖民地であったフィリピンでは,マニラに印刷所があり,タガログ文字でタガログ語を出版していた(三上65–66)。

宣教の主体は変るが……

ポルトガル殖民下で弘まらなかった印刷技術は,しかし,担い手を改めて,ふたたび輸出されることで定着することとなる。

ポルトガル布教保護地域への活版印刷の定着を担ったのは,プロテスタントであった。19世紀,バプテストのウィリアム・ケアリーらがデンマークインドのセランポールにおいて,ベンガル・オリヤ・マラティ語などインドの民族語聖書の翻訳に取り組んだほか,活版印刷ができるよう活字作成も行った(湯口)。のちには,おなじセランポールにおいて,ビルマ文字やタイ文字が開発されることとなる。また,インドでの活版印刷定着にはイギリス東インド会社の関与もあった(三上69)。

時代は前後するが,大航海時代は,ヨーロッパにおいて,現地研究が集積されはじめた時代でもあった。布教聖省は,1622年に開設されると,4年後には印刷所を開設し*2,「キリスト教の福音が行き届いていない地域への」宣教師を養成するための語学書を編纂しはじめた。これらは,文化研究の集約の原点ともいえ,のちのちの東洋学などの諸学の成果としてパリ王室印刷所に世界中の文字の活字が用意されるようなことに繋がった。

さきに述べた布教聖省やパリ王室印刷所などの伝統を承け,中国での印刷および漢字開発に取り組んだのもまた,イギリス東インド会社や,ロンドン伝道会,アメリカ長老会などであった。清末,西欧諸国の中国殖民地化がはじめられると,それまでマラッカなど殖民都市で使われていた漢字活字がいよいよ中国本土で用いられるようになる。中国学の伝統と,これらの漢字活字化などから,分合活字や漢字頻度調査などの創意工夫を経て,アメリカ長老会の美華書館で実用に至ったと言えるが,美華書館は,そこで学んだ技術を持って開業した現地人民間資本の商務印書館に取って代られるのだった(鈴木)。

宣教と印刷機

Ostlerは,大航海時代以降のキリスト教宣教における言語学習の側面について,現地語と殖民者の言語の両方に達した宣教師の養成手段を得るためであったという (44)。また,このことは,現地のひとびとについてなんら肯定的な評価を与えたうえでなされたわけではないことに注意しなければならない。その地における伝統的文字が印刷に附される一方で,それが殖民地政府によって禁止されるということもあったからである(三上66−67)。

このように,印刷機は輸出されていった。この過程はまた,印刷機がヨーロッパ人の必要の判断によってもたらされたものであることを説明するだろう。

文献

*1:なお,中国では活版技術は行われず,すでに盛んであった木版印刷によっておおくの出版をしている。これは,イエズス会の適応主義のあらわれであってのことだろう。

*2:三上67には,1626年に布教聖省が開設されたと説くが,この年に開設されたのは印刷所である(鈴木142)。なお贅言を重ねれば,三上66に日本で「キリシタン版」の印刷に使用された印刷機がマニラに渡ったと理解しうるかと思われる文言があるが,イエズス会が将来した印刷機は,追放後マカオに渡ったのであり,誤解を招く。Diary / + PCC + / 資料屆く参照。

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