築竹な日々 このページをアンテナに追加 RSSフィード

本の活字による分類は2005-04-09にあります。
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2005-04-25取り留めのない話 このエントリーを含むブックマーク

つまり秀英体はその誕生から百年余を経過して、工芸者の時代から技術者の時代を経てきた。その間に工芸者たる活字父型彫刻師の彫刻刀による微細なカーヴや、いうにいえない手技のぬくもりのごときものは機械メスと電気メスによって脱落させられた。

片塩二朗『秀英体研究』p.21、大日本印刷、2004

マージナルゾーン、というものがあります。主に活版印刷で(それも古いもので)気にされますが、より小さいサイズの場合、この滲みが問題になってきます。活字を好む人で、その印字の多様性を好む人がいますが、言い換えれば其のとき其のときで印字結果が変わる安定性の低く且つ可読性を下げかねない*1ということです。一つの活字書体の版面があって、それを基にその活字書体を別媒体で使えるようにする場合、さて、この揺らぎはどうしたらよいものなのでしょうか?

そこで冒頭の引用へ戻ります。工芸者技術者という褒められない区別は措いて、その「微細なカーヴやいうにいえない手技のぬくもり」なるものは、しかし揺らぎの原因とはなっても印字上の「いうにいえない」ものを醸すものにはなるのでしょうか*2

築地体六号のかなのスキャニング画像の上にBスプラインを置いて行く作業をしばらく続けているのですが、少なくともこの作業で、それを脱落させている罪悪感を覚えたことはなく、自分の解釈*3妥当性について、びくびくしながらやるだけです。微妙な滲みの違いをばっさりと切り捨て、できるだけ綺麗な曲線を描く作業です。観点を変えれば、活字の滲みの世界から滑らかな線を助け出す作業とも取れないとは思えないのです。

揺らぎといえば、GT明朝は揺らぎをなくそうとした結果揺れに揺れています。

僕の中はGT明朝は一般の明朝体と教科書体の中間的存在だということで理解している

LikeとDislikeの間に横たわるもの - FeZn/Bookmark

というのは、GT明朝は学参フォントを全部に敷衍しようとしたとの意味で当たっているのですが、学参フォントは官庁が基準を示した中でやっているのでよいものの、GT明朝の場合「体系性の積極的な拒否(鈴木一誌批判を封殺する透明性』1998)」をした結果どんな誤字をも取り込むなか、エレメントの微妙な部分には厳格であるという奇妙な体が気になるのです。

FeZnさんの記事がらみで。

……明朝体の仮名ってぇやつは、明朝体じゃない、じゃないですか。

多分、FeZnさんも少々異議が来るのは承知であろうと前置きをした上で、本当にそうでしょうか、これは楷書でしょうか? と問うてみたいと思います。楷書ならなぜヒラギノの上代様をイメージした文字が違和感なく溶け込む(いや、溶け込んでないかもしれませんが)のでしょうか? なぜ大日本の文字はあんなに脈絡があって違和感がないのでしょうか? 楷書の漢字と、明朝の仮名をあわせたらどんな惨状になることやら。

勿論、この問い自体曖昧な部分があって、答えにくいのは承知しているのです。たとえをいいましょう。学校漢字テストを受ければ楷書で書けと言われます。しかし、伝統的な字形を以って書けば、まず間違いなくペケをもらうでしょう……いや、もらったのですが。ある字体をある書体で書いた結果が字形であることを思い出せば、なんとも変な話でしょう。祖先が出てきたので言いなりで字形を祖先様に合わせている今なので比較的目立たないのですが、糸偏の書き方などにまだ残っています。

さて、かなに戻ります。楷書でもない、当然草体行書ではあるわけもない。では、こういうほかないのでは? 「明朝体の仮名は他の書体のものではなくて明朝体のものである」と。エレメントは同じものを使わないし、で一見まったく別のものをあわせたようで、でも実は大分仲がいい。そうであるのなら、態々切り離してしまう酷なことをしなくたって、いいではないですか。

まとまらないままこれまでに。

*1:というより寧ろ判別性でしょうか

*2:それに、よく考えれば、それは母型をつくり活字を作ってまだ残っていられるのでしょうか

*3:六号はマージナルゾーンがどうしても大きくなるので、一号や三号を参照しながら、且つ自分で判断しながら進めなければならないのです

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